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ノーラン・ライアン リンク集

リン・ノーラン・ライアン・ジュニア(Lynn Nolan Ryan, Jr. , 1947年1 月31日 - )はアメリカ合衆国テキサス州レフュージオ出身の元プロ野球選手。投手、右投右打。現テキサス・レンジャーズ球団社長兼共同経営者。 1966年から1993年までメジャーリーグベースボールでプレーし、コントロールが悪いものの最速101マイル(約 163km/h)の速球を武器に三振の山を築いた。通算奪三振、シーズン奪三振、通算与四球などのメジャー記録を現在も保持している。引退時にはタイ記録も含めると53個のメジャー記録を保持していた[1]。 1999年に野球殿堂入り。2008年2月6日、テキサス・レンジャーズの球団社長に就任し、2010年1月23日にはオーナーだったトム・ヒックスから投資グループの一員として球団を買収、共同経営者となった。社長は兼任している。 ニックネームは特急を意味するジ・エクスプレス(The Express)。

テキサス州のレフュージオに6人兄弟の末っ子として生まれ、生後6週間で一家がヒューストン郊外のアーヴィンに引っ越す。家庭は貧しく、父は早朝の新聞配達と石油会社勤務を兼業していた。このような家庭環境からかライアンは早熟で、12歳の頃には自ら貯めた金で子牛を買っては育てて売り、その金で新しい子牛を買っては育てて売り…を繰り返し、高校入学時には自分の牧場を借りるまでになっていた。また、中学1年の頃にはマイカー(52型チヴィー)も所有していた[2]。 高校時代の投球(規定7回)で19の三振を奪うなど輝かしい記録を残したが、1965年6月のドラフト10巡目(全体295位)でニューヨーク・メッツから指名を受けるまで、どこからも声がかからなかった。最初のマイナーリーグ時代はアパラチアン・リーグで投げた。 ニューヨーク・メッツ [編集] 翌年の1966年はウェスタン・カロライナ・リーグのグリーンビルで投げ、183イニングを投げ、272三振・ 127四球・17勝を記録。三振・四球・勝利数は当時のリーグ新記録となり[3]、最優秀投手に選ばれる。この年の後半、イースタン・リーグ(AAA級)のウィラムスポートに昇格。この中の1試合、ポータケット戦で9回と3分の1を投げ、21三振を奪った。この年メジャーデビューも果たし2試合に登板したが、結果は0勝1敗・防御率15.00という、散々な結果だった。 1967年の前半は陸軍予備兵として過ごし、後半に復帰したが、カーブの回転に固執して無理な腕の振りを繰り返した結果、右肘の腱を断裂したためリハビリに徹さざるを得ず[要出典]、マイナーで過ごした。後年カーブにのみこだわる必要がないようにとの反省からチェンジアップを会得する[要出典]。 1968年、初めてメジャーでフルシーズンを迎える。134イニングを投げ133の三振を奪うなど活躍したが(当時の球団記録となる14三振を5月18日のレッズ戦で奪っている)、当時のトム・シーバーやジェリー・クースマンを中心とするメッツの強力な先発投手陣に食い込むには至らなかった。 1969年は6勝3敗・防御率3.53の成績で、メッツ球団史上初の公式セーブを挙げている。ワールドシリーズでは第3戦で苦闘する先発投手を引き継ぎ、当時の強力なボルチモア・オリオールズ打線を相手に2回3分の1を投げ零封しメッツの勝利に貢献、ここでもセーブをあげている。第5戦でオリオールズを倒し、メッツをワールドチャンピオンに導く。これがライアンが初めて、そして生涯で唯一出場したワールドシリーズであった。 1970年・1971年はコントロールに苦しみ、1970年は7勝11敗、132イニングの投球で97の四球、1971 年は10勝14敗、152イニング投げて116の四球を与えた。 カリフォルニア・エンゼルス [編集] 1971年12月10日、3人の他の選手と共にカリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)にトレードされ、先発の柱となる。これはエンゼルスで捕手のジェフ・トーボーグと出会ったことが大きい。トーボーグは「モーションを急ぐために足の踏み出しに腕の振りが追いついていない」とライアンのフォームを分析し、欠点を指摘した。その後デル・ライス監督やトム・モーガン投手コーチも交え、フォーム改造に取り組んだ。ライアンは後年「機械的でうんざりすることもあったが、結局はこの作業が私のピッチングを変えることになった」と振り返っている[2]。 移籍1年目の春季キャンプでは球団の環境に嫌気がさし、引退を考えている。後年、彼は当時を振り返り「それは(選手会による)史上初のストライキになるところだった。そしてあの状況があと1週間でも続くものだったら、私はアーヴィンに戻り、二度と戻るつもりなどなかった。労働者としての職を得て、それで過ごしていくつもりだった」と語っている[4]。当時のエンゼルスは弱小チームであったが、毎年19勝から22勝をあげる安定した活躍を見せることになる。 1973年シーズン最後の登板となった9月27日のツインズ戦で11回を投げ16奪三振を記録しシーズン奪三振は383となり、サンディー・コーファックスが保持する20世紀以降の年間奪三振メジャー記録382を更新[3]。同年には5月15日と7月15日に2度のノーヒットノーランを達成し、23試合で2桁奪三振を記録したが、サイ・ヤング賞の投票ではジム・パーマーに次ぐ2位に終わった。 1974年は3度目のノーヒットノーランを達成する。1974年8月20日のホワイトソックス戦において、エンゼルスの企画で赤外線レーダーによる測定が行われ、100.9マイル(162.4キロ)を記録し、これが現在のギネス記録である[5]。翌年の1975年にも4度目のノーヒットノーランを達成し、再びコーファックスの記録に並ぶ。1970年代には奪三振王を7回獲得し、1試合19三振のメジャー記録(その後1986年・1996年にロジャー・クレメンス、1998年にケリー・ウッドが1試合20奪三振を記録してライアンの記録を破る)も達成する。 ヒューストン・アストロズ [編集] エンゼルスのGME・J・"バジー" バベシ(シアトル・マリナーズでGMを務めたビル・バベシの父親)がライアンを「勝率5割の投手」と見切りをつけた[1]。1979年11月19日、フリーエージェントでヒューストン・アストロズと4年450万ドルで契約し、史上初の単年あたり100万ドルプレーヤーとなった[6]。この年から今までのノーコン・パワーピッチング(このときまで1試合平均4以上の四球を与えていた)を改め、チームの勝利に貢献できるような投球スタイルに変更する[要出典]。1980年・1981年にポストシーズン出場を果たすが、ワールドシリーズまではたどり着けなかった。 1981年の9月26日に5度目のノーヒットノーランを達成し、コーファックスの記録を破る。同年には防御率1.69でタイトルを獲得した。1983年4月27日にはウォルター・ジョンソンの通算3509奪三振を抜き、通算奪三振のメジャー記録を更新した[7]。 1986年に再びポストシーズンまで進めるが、リーグチャンピオンシップで姿を消す。1987年には防御率2.76と270奪三振でリーグ1位となるが、打線の援護に恵まれず8勝16敗を記録する。そのため、それぞれのシーズンで最高の投手に与えられるサイ・ヤング賞を逃し、その後引退するまでついにサイ・ヤング賞を受賞できなかった。最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得しながらサイ・ヤング賞を逃したのは、歴史上ライアンだけである。 テキサス・レンジャーズ [編集] 1988年のシーズン後にテキサス・レンジャーズに移籍し、1989年のシーズンには16勝・301奪三振を記録。8月22日のアスレチックス戦の5回にはリッキー・ヘンダーソンから三振を奪い、史上初の通算5000奪三振を達成し、1990年には通算 300勝も達成している。 1991年には44歳にして防御率2.91(リーグ5位)・203奪三振(リーグ3位)を記録、再びサイ・ヤング賞の候補に上がる。1991年5月1日試合前に体調が悪く「5回までもたないかもしれないから、代わりの投手を用意しておいてくれ」と言い残しての登板だったが[6]、 7度目のノーヒットノーランを達成した。1993年を最後に現役を退いたが、速球は94マイルを記録した[1]。 引退後 [編集] ライアンは資格取得1年目の1999年に野球殿堂入りを果たす。殿堂入りは記者投票で決まるが、ライアンの得票数491票は歴代1位(当時)、得票率98.79%は歴代2位だった。「レンジャーズに在籍した時、私のキャリアと試合における存在感は一段上のレベルになった。あの何年かは、私にとって特別なものだ」と[1]殿堂のプレートのライアンはレンジャーズの帽子を被っており、レンジャーズの選手として最初の殿堂入りとなった。これより前の1992年には(当時まだライアンが他球団で現役で投げているにもかかわらず)エンゼルスでの背番号30が、1996年にはアストロズとレンジャーズでの背番号34が、それぞれ永久欠番に指定された。3球団で永久欠番になったのは史上初である。また、この年MLBオールセンチュリー・チームの右投手部門で1位に選ばれている。 2006年にはヒューストン・アストロズで特別アドバイザーを務め、後進の指導を行った。ロジャー・クレメンス(2006年シーズン終了時通算奪三振でライアンに次いで歴代2位)がアストロズ在籍時に撮影された、ライアンとのツーショット写真もある[6]。 2006年にアストロズの本拠地 "ミニッツ・メイド・パーク" で始球式を行ったライアン(右)。捕手役はアンディ・ペティットが務めた レンジャーズ時代の監督で日本プロ野球・千葉ロッテマリーンズでも指揮を執ったボビー・バレンタインとは旧知の間柄であり、その縁もあって2007年7月18日に行われた千葉ロッテマリーンズ−オリックス・バファローズ戦(千葉マリンスタジアム)で始球式を行った。 2008年2月6日、テキサス・レンジャーズの球団社長に就任した。1925年以来初めての、殿堂入りした選手によるメジャーリーグ球団社長就任となった[8]。

最速101マイルの速球、大きく縦に割れるカーブ、サークルチェンジを持ち球にしている。 当時異端児と言われたピッチングコーチのトム・ハウスと 二人三脚で編み出した独特のトレーニング法・調整法は後年の投手に多大な影響を与えた。その徹底された健康管理とトレーニング方法はその著書 "ピッチャーズ・バイブル" に詳細に書かれている。その中でも特に、当時投手には一般的でないどころか、害になるとさえいわれていたウエイトトレーニングを取り入れ、また肩周辺のインナーマッスル(いわゆるローテーターカフ。 当時はこれらの言葉も一般的ではなかった)もアウターマッスル同様に鍛えるエクササイズを取り入れていたことは、驚くべきことである。「投手は若いうちは より多くのイニング数を投げて肩を作るべきだ」という独自の考えをもっており、現在のメジャーでスタンダードとなっている「先発投手は1試合100球・1 シーズン200イニング」という考え方に疑問をもっているとのコメントが "ピッチャーズ・バイブル" の中においてある研究者に寄せられている。

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